僕の胸の奥には深い淵がある。
荒野のように広がった心の隅に、切り立った崖がぱっくりと口を開けて僕を待ち受けている。僕は時折その縁に立って真っ暗で何も見えない底を覗き込む。
何も見えない。
ただ物凄く深そうだと深さを実感するだけ。
時折下から吹き上がってくる湿気った風に髪が煽られ、風が立てる音を感じて底にある淵とその深さを実感するだけ。
僕には、崖を飛び降りる勇気もない。
夜中に目が覚めて、一生このまま夜が続いていくんじゃないかと思っていた。
酷使し慣れた身体が体力を持て余していた。いつもだったら疲労で横になったらすぐに眠りに落ちて、枕元に置いた携帯電話で起こされない限り起きないというのに、今日の僕は中途半端に体力を残していて、鉛のような全身を押しつぶすような疲労感に慣れた身体が不満げに疼く。
神経がピリピリと尖っているのがわかる。
今日発生した閉鎖空間には、僕が到着したときにはもうほとんどが済んでいて、僕はたいして何もしていなかった。
いつ呼び出しがかかるかわからない。
寝なければ、少しでも休まなければ、と思うのに覚めてしまった眠気はなかなか僕を迎えに来ない。
目を閉じても目を開いても、闇に手も足も飲まれて何も見えない。何も掴めない。
いや、実際には暗さに慣れた目には部屋の様子も自分の手足もきちんと見えていた。
けれど、精神面から溢れ出たどうしようもない闇色に、僕は僕の輪郭を見失った。
二度と夜が明けない気がした。
無作為に神に選ばれてから僕は、神と遠巻きに神を取り巻く大人たちの一挙一動に過敏になって、神経をすり減らしていた。
焦れるほど緩慢に。震えるほど迅速に。ときに削られときに己の手で削り取る。そうやって確実に、僕は摩滅していた。
強がって意地張って、弱気になって震えそうになる両足を叱咤して踏ん張りながら、心のどこが確実に摩滅していくのを感じていた。
得るものなんて何ひとつないまま、僕は磨り減っていた。
尖り細り、今にも折れそうだ。
「はは…」
寝ても覚めても破壊、破壊、破壊――…。
僕のすることのなんて非生産的なことか。
この手は何も生み出さない。
僕の存在は何も作り出せない。
そう思ったら泣けるどころか笑えた。
「はははは……は、」
咽喉が詰まる。
怖くない。怖くない。
呪文のように心の中で呟きながら腹部を温めるように押さえる。
ベッドに横になって腹を守るように身体を縮込める僕の、なんと卑小で卑屈な存在なことか。
まるで胎児のようだ。
そう思えたら少しだけ気が楽になった。
まるで体内回帰を望むようなそれは、まだ僕が人間の気持ちを手放していない証拠のような気がして、恐れを拭いきれない痛みはそのままだったけれど、気持ちがほんの少し和らいでやっとまともに息ができる気がした。
けれど僕はもう、夜明けの夢は見ない。
「…――だというのに、この様はいったいなんでしょうね――…」
「あぁ?なんか言ったか?」
「いえ、何でもありませんよ」
「…そうかよ。いいけどな。その年で独り言は危ないぞ」
「ふふ、そうですね、以後気をつけるとしましょう」
胡散臭いということを隠そうともせず表情に浮かべた彼は手に持っていた駒をボードに置くと、さあお前の番だ、と視線を投げてくる。
「平和ですねぇ」
僕は笑いながら駒を一つ置く。
彼は僕の打った手の悪さに、少し顔を歪めて、それから鷹揚に頷いた。
「ああ、平和だな」
このままあいつが馬鹿なことを思いついてしでかさないことを祈るよ、と言ったけれどほんの少しゆがめられた口元で、内心では彼がほどほどなら騒がしさも望んでいることも伝わってきた。
本当に平和だ――と呟いて、彼は駒を置くと宣言した。
「チェックメイト」
ゲームに弱い僕相手だとしても勝利はやはり嬉しいのだろう、彼が少し笑った。
西日に顔を照らされて室内が輝いている。世界がキラキラと輝いている。
ああ、やはり僕はもう夜明けの夢は見ないのだ。
夢など見なくても、どんな夜もいつだってここで明ける。
彼のいる世界で、僕は目を覚ます。
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