あまりに容易く語るから、俺は聞き流してしまっていた。
三年前。その時自分は幾つだった。小学生を出たばかりのほんの餓鬼だったじゃないか。妹の年にたったプラス一、二年だ。
ようやくそこまで思い至って俺は背筋を走った震えにぞっとした。
当時相手を胡散臭いと思って話半分で聞いていたことを差し引いても俺は他人に対して冷淡すぎやしないか。
パニックしたと言った。怖い思いもずいぶんしたと。
そして自分の頭がおかしくなったと思って自殺していたかもしれない、と。
あいつはいつまでも自分の存在自体を疑っている。疑い続けているというのに。
古泉も古泉だ、まるで他人事のようにさらりと語りすぎだろう。…いや、もしかしたら本当に他人事だと思っているのかもしれない。所詮自分は神の精神に出来たニキビ退治をするだけの存在だと思って。
――ちょっとホッとしているんですよ、僕は。
俺とハルヒが閉じ込められた閉鎖空間で、あいつが言った言葉のなんと重いことか。あれがあいつの偽らざる本音なのだろう。滅多に本心を見せないあいつの、いや、初めてあいつが明かした本音だった。あいつは特権であり義務であり任務であり強制である閉鎖空間で神人を狩ることにどこかで厭いていたんだと思う。古泉にとって生とは、三年前から神人を狩る能力者というただそれだけの意味しかなかったのかもしれない。なんて嫌な話だ。
今のあいつには未来がないんだ、と思ったら不覚にも腹の底からこみ上げてきた何かでぐっと咽喉が詰まった。
イメージとキャラクターを維持するために、あいつはその日着るシャツの一枚どころか、そのシャツに付いたボタンを留める数まで他人に決められてしまっている。
あいつにとっての神がいる限り、あいつはずっと自分で自分の服装すら決められない。それどころか未来と呼ばれる見えない先の時間までをも奪われ続けるんだ。先がずっと見えているっていうことは、それを自分の意志で選べないということは、そこに選択肢がないということと同じだろう。
「それは同情ですか」
古泉は隙のない完璧なさわやかな笑顔を浮かべて、俺を窺ってきた。
「…否定はしない」
というか、カテゴリで分類したなら同情と呼ばれる類のものなんだろうと俺も思っていた。
「正直ですね」
いつもそうだと助かるんですが、と少し楽しそうに、笑う。
「ですが、それは無用です。そういった気遣いは僕なんかに無駄打ちせず、涼宮さんに使ってくださると僕としましてはありがたいのですが」
俺が想像していたものからほとんど外れない模範解答とでも言える回答だった。
「涼宮さんの心の平穏、それがひいては僕の平穏となります」
言うと思ったよ。
ほんと、お前はいつだって完璧な優等生だ。
だがな。
「お前の考えなんか知るか。お前の言葉を借りるなら、俺は俺の心の平穏とやらのために動くことを決めただけだ」
「あなたの?」
ほんの少し意外そうに、古泉の頭が少し左に傾いた。
「そうだ。……このままじゃ俺の精神にすこぶる良くないからな」
「どういう意味です」
どうして僕への同情とあなたの心の平和がイコールで結ばれるのか、と古泉の目が問う。
普段は何を考えているのかさっぱりわからないくせにときどき古泉の目は嫌になるくらい雄弁になり、そしてその目の純度はどこか幼い子供のようなそれで、俺は落ち着かなくなる。
なんと答えようか、俺は少し逡巡し、一拍置いてから口を開いた。
「お前がかわいそうだからだ」
古泉が目を見張る。
それから「それはそれは…」と言いながら咽喉を鳴らして笑った。
意外な答えです、と一度言葉を切ってから、古泉はまっすぐに俺を見た。
「ですが、もう一度言わせてもらいますが、それは無用です」
「俺ももう一度言わせてもらうが、お前の意見なんか、俺が知るか」
これは俺が決めた、俺による、俺のためのことだ。
「どこの独立宣言ですか」
「脳みそが欲しい案山子、心臓が欲しいブリキのきこり、勇気が欲しいライオン、お前はどれだ?」
唐突な俺の科白に古泉笑みを浮かべたまま、何かを考えながら口を開いた。
「オズの、魔法使いですか?」
「さぁな。俺はあの話をまともに読んだことはないよ」
「では、なぜ?」
「旅の行程に意味はないとは言わないが」
だがたまには家に帰ってもいいんじゃないかと思っただけだ。
(ドロシー、踵を三回鳴らしておうちへお帰り)
「古泉、俺から見たたらお前はただの迷子だよ」
「……僕を迷子だと言うのなら、それこそ帰り道がわからない、ということになりませんか?」
「だからってエメラルドの都を目指すことはないさ」
(ドロシー、踵を三回鳴らしておうちへお帰り)
「……あなたの比喩はわかりにくいです」
お前の比喩だってわかりにくい。例えるのは得意じゃないんだ。我慢しろ。
「俺はこの話を簡単な概要しか知らないからな、自分の想像で補うしかない」
古泉はエメラルドの都を目指しているんだろう。物語の中とは違って、どこにあるのか誰もわからない、本当にあるのかもわからない、それこそ童話の中の絵空事のようなそれを求めて歩かされている。
古泉の行動はいつだってあらかじめ誰かが決めた道から外れない幅の内に限られている。いつだって優先されるのは古泉自身の意思ではなく、『機関』の意向で、そこにはお前の主体がない。お前自身で選べるものがない。選択肢がない。選ぶ権利もなく、拒否する権利もなく、おおよそ予想のつく先の先まで何もかもが他人によって決められていて、どん詰まりの行き詰まりだ。
「……確かに、僕自身が選べる選択肢は限りなく少ないのでしょう。けれど、今は自分で選んだことです」
「じゃあ俺にゲタを預けてもいいとか言うな」
自分の役目だの役割だの言うなら途中で投げ出すような科白を吐くんじゃない。
「エメラルドの都を目指すのは…、まぁSOS団もそれと少し似たようなもんだとは思わないでもないが」
だがな、古泉。そこはお前の目指す、『機関』の夢見るエメラルドの都とはきっと違うと思う。
「違いますか」
「違うだろう。心穏やかにストレスを溜め込まず静かに平和に、なんて無理だ。それは泣くな笑うな怒るな悲しむなって言っているようなもんだろう」
違うか?
「ハルヒだって人間だ。お前にとっては神だとしても人間なんだよ、古泉。お前と同じ、人間だ」
泣くし笑うし怒るし悲しむ、人間だ。
「…………では、僕はずっと家に帰れない」
ふわり、と古泉が甘く柔らかく笑った。それは多分綺麗と形容されるような表情で、うっかり触れたらぼろぼろと崩れてしまいそうだった。
なんて顔で笑いやがるんだ。だから俺はお前に同情してしまう。
「……だから、同情は無用だと言ってます」
「俺も、お前の意向なんて知るかと言ってる」
俺も古泉も黙った。
パイプ椅子の背もたれに掛ける体重の比重を増やすと腹の前で両手を組んだ古泉はほんの少し目を伏せ、無駄に形のいい唇から静かに息を吐き出して呼気を逃がす。たったそれだけなのに、嫌味なくらい絵になる。
「……平行線ですね」
「…平行線だな」
俺が同意すると古泉は微苦笑なる曖昧かつ作るのに難易度の高そうな笑みを浮かべて片手で前髪を掻き分けた。何をしていても無駄に様になる野郎だ。その手が再び膝の上に戻る前に俺は口を開いた。
「手を繋いでやろうか」
俺の唐突な申し入れに、古泉は下げかけた手を下ろし損ね、そのまま前髪を指先で弄りながら苦笑を深くし小さく頭を左右に振った。
「結構です」
「ほら」
俺はそれを無視して右手を差し出す。
「………結構だと言ったのが聞こえなかったんですか」
まるで俺が突発性の難聴になったのかと訝るみたいな目を向けてくるな。
「いいから、ほら」
俺は腕を伸ばして無理やり古泉の手を掴んだ。
古泉の手は温度が低いさらりとした手をしていた。
以前閉鎖空間に入るために繋いだときは短い時間だったからよく覚えていないが、表情が柔らかく甘いから俺は古泉自身も柔らかいものとどこかで思っていたが、やっぱり同じ男なんだな、と思った。男としては白くて爪の形も整っていて綺麗な手だと思うが、皮膚は硬くて長い指の関節はごつごつと節張っている。
「……僕の手に、何か楽しいものでも付いてますか」
しげしげと手を眺めていた俺に、古泉は無意識か意識的にか手を引こうとしたが、俺の手がそうさせない。
「いや、普通の手だ」
「もういいでしょう?」
離してください、と言う古泉の手を、俺はぎゅっと握った。
男の手を握るなんて正直自分でも自分の気持ちが気持ち悪いと思わんでもないが、離せと言われればその反対をしたくなるのが人間の心理だろう。
俺が手を離さないからだろう、古泉の目が少し、困惑して揺れた。
「ゲタを預けられても困る。ハルヒの機嫌を取るような真似も、俺には無理だ。でも」
途中で言葉を切って、短く息を吸い込む。
「でも俺はお前がかわいそうだ。何度だって言ってやる」
自己満足だってわかっている。身勝手な、古泉にとっては迷惑な話でしかないだろう。そんな同情を自分にかけるくらいならハルヒの機嫌を取ってくれと、古泉は何度も俺に言っている。でもな、俺にとってハルヒは人間だし、お前も人間なんだよ、古泉。
「ハルヒをかわいそうだとは思わない。あいつは自業自得だ。そばにある幸せに気づこうともしないでびっくりするような面白いことがどこかにあるはずだと駄々こねて癇癪起こして騒いでるだけだからな。言っておくが俺はお前を不幸だと思ってるわけじゃないぞ。お前はお前なりに現状を楽しもうとしていることもわかってる。実際それなりに楽しんでいることもわかっている」
でも俺はお前をかわいそうだと思ってしまうんだ。
「あなたは…」
「そんな俺に出来ることなんてのはな、この程度なんだ古泉」
お前の手を握るのが精一杯なくらいの、その程度なんだよ。
(ドロシー、踵を三回鳴らしておうちへお帰り)
昔のお前の家は、ハルヒという突然の竜巻によって壊されてしまった。壊れてしまったものは、どうしたってまったく同じものは戻ってこない。
「…………手を、」
繋いでいてくれるというのですか、と古泉が淡々とした声を発しながら俺を見た。古泉の純度の高い目は、途方に暮れた迷子のそれだ。そして、自分を迎えに来てくれる相手がいないと思っている。だから泣かない。ただただ途方に暮れるばかりで、さらさらと渇いている。そのまま成長してしまって、自分が何かを手に出来るとは少しも考えていない、そんな目だと思った。何もないと、何も持てないと諦めてしまって、諦めてしまったことすら忘れてしまった、そんな目だと思った。
「もう、俺もお前も朝比奈さんも長門も、一蓮托生なんだ」
「……そう、なのでしょうか」
「そうなんだよ」
(ドロシー、踵を三回鳴らしておうちへお帰り)
帰れないなら、おうちを思い出すまで一緒にいるから。
「だから他人事みたいな顔して一人解説役に回ってんじゃねぇよ」
自分も渦中にいることを忘れるな。
一歩引くような真似するな。
きちんと隣りにいろ。
手を繋いでいられるように。
(ドロシー、踵を三回鳴らしておうちへ、)
俺は手を繋いだまま、そばにいるから。
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