僕が彼の変化に気づけたのは、普段からの観察時間の長さの賜物と言っていいでしょう。
涼宮ハルヒ上級大将に向かって報告書を読み上げる彼が、二度無意識に咽喉に触れ、三度途中で小さく咳払いをした。それは本当にささやかな、見る人によっては特に意識をすることもないまま気づきもしないだろう小さな仕草だった。
彼は淡々と報告を終え、艦長室を退室する。
僕が目だけを動かしてちらりと閣下の顔を窺ったところ、彼女も無意識に何かおかしいと気づいたのだろう、すっきりしない顔で首を捻っている。
視線に気づいた閣下が僕を見つめ、視線だけで僕に問う。
僕は小さく頷き、ドアに視線を走らせる。
それだけで僕の意図を察した閣下は、頷いた。
退室の許可をいただき、僕も彼に続き、艦長室を辞した。
廊下に出ると、彼は思っていたよりも遠くへ行っておらず、僕は大股で歩くことで彼との距離を詰めた。
見れば彼は端末で誰かと通信中だ。どうりでそれほど艦長室から離れていなかったのかと納得し、彼が通信を終えるのを待つ。
「…――そうか。――いや、それだけで充分だ。後はこっちでやる。助かったよ、長門」
情報参謀とやりとりをしていたらしい。
「――何か、御用でしょうか」
通信を切り、彼が僕のほうに向き直った。
勤務中の彼は公私にきっちりと線引きをしている。
気だるげな雰囲気こそ残しているができるだけ感情を表に出さないように勤め、階級が上だからと僕に対する敬語も忘れない。それは彼曰く年齢と実力にそぐわない出世をした自身にない威厳を補うための苦肉の策であり、部下に舐められて仕事に差し障わりが出たりしないように、何より涼宮閣下の足元を狙う人間に彼女の弱みとして目をつけられないように、そして階級が上の涼宮閣下や僕に対して普段通りの態度を取ってそれを見た部下たちに僕らが軽んじられたりすることがないように、という彼の配慮だった。彼は涼宮閣下の元に集う幕僚の中で自分が最も非力だと思っている節がある。僕らどれほどそんなことはないと言い募っても彼は納得しない。
「咽喉、どうかされましたか?」
僕は単刀直入に聞いた。
腹の内を探りあうのような会話のやりとりは僕と彼にとって日常茶飯のことだが、今はそれよりも率直に問い質したほうが彼を揺らがせるだろう。
「いえ、特に何もありませんが?」
彼は淡々と返したが、僕はすぐに気づいた。返答にレイコンマの単位でタイムラグが発生したことを。あまり僕の観察眼を甘く見ないでもらいたいものだ。
「メディカルルームには行かれましたか?」
絶対に行っていないとわかっていて、わざと僕は聞いた。
「用もないのにメディカルルームに行ったりしません」
「そうですか。では行くように」
「……自分にはメディカルルームに行く用事も理由もありませんが」
「作戦参謀、これは命令です」
逆らいますか、と目で問えば、よほど注意深く観察していなければ気づかないだろう――彼は僕から少し視線を外してそっと奥歯を噛んだ。
「早急に職務に戻りたいのでしたらなおさらメディカルルームに行きなさい。初期症状のうちに治療を行えば、結果的にあなたの心配するタイムラグも僅かで済みます」
僕が言葉を重ねてようやく彼は渋々頷いた。
「……了解しました」
「それから、少しくらい息抜きをしてきても仕事は逃げませんよ」
メディカルルームにいるだろう朝比奈さんとお茶の一杯でも取って精神面のケアもしてもらいなさい、と言下に潜ませる。
彼の異変が風邪の初期症状ならば朝比奈さんと温かいお茶を飲んで精神をリラックスさせることも体調回復に有効だろうと僕は推測する。
彼は僕を数秒見つめ、それから唇だけを動かして呟いた。
悪い、と。
自然と僕の口元に笑みが零れる。
「こういうときは謝罪の言葉ではなく感謝の言葉がいいですね」
ありがとう、と。
ただそれだけでいいのですよ。
この言葉に対する彼からの返答はなかったが、気にすることではない。
言うべきことを言い終えた僕は、そろそろ艦長室に戻らないと、と腕を伸ばし彼の肩をそっと撫でると、すぐに手を放して踵を返した。
「お大事に」
(Initial symptom:初期症状)
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