略して「バタフライ効果」。男子団員二人中心のテキストを取り扱っています。
Posted by バタフライ効果 - 2008.06.20,Fri
男は眼鏡をかけているときと外しているときで態度が違う。
スイッチが付いているのかと半ば本気で思っていたら、
「わかりやすくていいだろう。気分をきっちり切り替えられる」
かけていた眼鏡を外した男が底意地悪く笑う。
「餞別をやろう」
「何ですか、突然」
「お前の異動が決まった。今日中にでも命令が下るだろう」
「それはまた随分と…」
急ですね。
「前々からお前がお気に入りの脳内花畑女が人事にお前の異動の件の打診をしていたのは知っているだろう」
「……ええ」
ハルヒは事あるごとに自分の艦へさっさと来るように言ってきていた。
「あの女の階級が一つ上がることが決まった。その結果、あの女の人事へのごり押しが通った」
いくらハルヒがごり押ししたってあんたが頷かなきゃ俺の異動なんて却下だろうに。
「そうだ、つまり俺が了承したということだ」
男がもっと近くに寄れと俺を呼ぶ。
近寄った俺の前髪を、男の長い指がひと房摘んだ。
「お前個人にはたいした価値はない」
吐息がかかりそうなほど真正面から俺の目を覗き込んでくる。
そんなこと、改めて言われなくてもわかっていますよ。
「だが、お前に付いているオマケたちにはそれなりに価値がある」
俺も慣れたもので、この程度の距離ならもう眉一つ動かさない。
「そしてそれなりに価値のあるオマケたちがお前の価値を作る」
無反応がつまらなかったのだろう、髪から離した指が俺の頬の輪郭をなぞった。
「危機的状況になったときほどまず自分が生き延びることを考えろ」
他人の命を言い訳に使うなよ?と、男が言う。
酷い言葉だ。男は犠牲を厭うなと言っている。なんて嫌なことを言うのだろう。
「……それは、俺に部下を見捨てろと?」
俺の発言に男が目を細める。まるで出来の悪い生徒を見るような目だ。
「お前がお前を優先させずに誰かの盾になろうものならお前のオマケたちが自分を犠牲にしてでもお前の盾になるだけだ」
だが、出来が悪くて手のかかる生徒ほど愛着が湧くものなのだろう、男は今度は手のひらで俺の頬に触れた。
「弱いやつはな、大人しく守られていればいいんだよ」
白い手袋越しの男の体温が頬の皮膚から俺の中に入り込んでくるような錯覚がした。
「……そうもいかないでしょうが」
俺が弱いことは否定しない。ただの事実だ。だが仮にも士官が部下を見捨てたりしたら、査問どころの問題じゃない。軍法会議にかけられて除籍どころか下手すりゃ存在の抹消だ。軍の根幹から揺るがすことになる大問題だからな。
「お前は本当にわかってねぇな。どうして俺がお前に集積した情報で作戦を組み立てて展開構築する方法論を叩き込んだと思ってる。基本技能も基礎体力も下手すりゃ並以下のお前は大人しく後方に控えていろ」
「実践になったらそんなこと言ってられません」
必要になったら俺だって前に出る覚悟くらいある。
「お前はじっとしてろって言ってんだよ。守るもんがちょろちょろ移動したら守るほうだって守りにくいだろうが」
「……どうしても俺が守られる側ですか」
「顔があったって脳みそがなけりゃ手足は動かないことを忘れるな。だからお前はせいぜい守られて大事にされていればいい。お前の周りのやつはお前がとても大事らしいからな、お前が何かしなくても大事に抱えて守ってくれるだろうさ」
顔に不満が出ていたのだろう、男が唇を歪める。
「不満そうだな」
「会長には会長の持論があるっていう話でしょう。俺はそれを否定したりはしませんよ」
だが俺にも俺の信念がある。覚悟がある。守りたいものがある。それを否定させはしない。
「お前の価値を決めるのはお前じゃない。下手なプライドは捨てろ。信念なんて邪魔になるだけだって何度教えたら覚えられるんだろうな、この子猫ちゃんは」
男が低く笑う。
頬にあった男の手が俺の咽喉元を覆うように軽く押さえた。
誰が子猫ちゃんだ、誰が。
「お前がそんなだからお前の周りはお前のことを過保護にしたがるんだよ。お前がちゃんと守らせてくれるってわかればお前のオマケ共だって無闇矢鱈と心配したりしなくなるだろうに。守られる利点を最大限に引き出して活用しろよ。守られてやることで、守れるものもあるんだぜ?」
俺はハッとして男を見た。
男の手が首の後ろに回り、俺を引き寄せる。
「お前を手放してやる条件だ。…いいか、お前は前に出るな」
耳に直接男の低い声が吹き込まれる。
俺を引き寄せていた手を放すと、男は外していた眼鏡をかけた。
絶妙なタイミングで室内に人が入ってくる。
いつも柔和な笑みを浮かべている喜緑さんだ。別の部署から男がわざわざ引き抜いてきたくらいだからとても有能な女性だ。
喜緑さんは俺を見て微笑むと、男のそばに近寄って何か一言二言告げた。
男が頷く。
用は済んだとばかりに喜緑さんは敬礼をするとすぐに出て行った。
男の長い指先がずれてもいない眼鏡の位置を直すように眼鏡のツルを押し上げる。
「君の異動命令が正式に下った」
淡々と告げられる事務的な内容を神妙な顔をして聞いた。
「下がってよし」
俺は敬礼をしてから、男に背を向けてドアへ向かう。
「いいな、お前は前に出るなよ」
部屋を出る直前、男の声がした。
「お前みたいな弱いやつは下手に前線に出ればすぐに死ぬ」
おいおい、さっきかけたばかりの眼鏡をもう外したんですか、と声を振り返れば男は眼鏡をかけたままだった。
眼鏡をかけたまま、男が唇を歪めた。
ガラス越し、男の目は見えない。
レンズが光を反射して、どんな目をしていたのかはわからない。
「生き残れ」
会長、あんたどうしたんだ。
あんたらしくないだろう、そんな科白は。
けれど俺も、
「イエス、サー!」
そう返すのが精一杯で、なぜか不意にこみ上げてきた不可解なものを慌てて飲み込みながら、退室する。
自分は戦場に赴くのだと、唐突に実感した。
(会長がキョンを子猫ちゃん呼ばわりしたときは本気でどうしようかと思いましたが、出てきてしまったものは仕方ないですよね。未熟者、という意味で会長は子猫と言ったんですよ)
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