ふとテレビのあるほうに顔を向けると、長方形の枠の中で、いったい何がそんなに楽しいのか、一人の男がにこにこしながらありふれた街中をゆったりとした足取りで歩いている姿が映っていた。
目に映るもの全てが美しいとでも言いたげに男が柔らかく目を細めると、どこにでもありそうなありふれた風景がとても貴いもののように感じられるから不思議だ。
手足がすらりと長く、着やせして見えるがそれなりに筋肉が付いて均整の取れた体、秀麗と呼ぶに相応しいだけの容貌、万人の視線に耐えうるその男は今――いったい何をどう間違ったのか――白いシャツの袖を肘までまくり、腰にはギャルソンタイプの黒いエプロンを巻いて俺の家のキッチンで包丁を振るっている。
ちなみにエプロンは男の自前だ。俺はエプロンなんて使わない。そもそも俺は台所に立って料理などしない。俺が台所関係で触るのは電子レンジと電気ポットだけだ。電子レンジがあれば冷凍食品が食べられる。電気ポットがあればお湯が手に入る。カップラーメンが作れる。お茶が飲める。電気ポットは便利だ。水を入れて放置しておけば勝手に湯が沸くし、コンロにかけたヤカンと違って放っておいても問題がない。
念のために言っておくが、俺は料理ができないわけではない。もう何年も包丁を持っていないから断言できないが、大学時代は家を出て一人暮らしをしており自炊もしていた。得意とは言えないがそこそこ食べられるものを作っていた。
その俺が、いつから台所に立たなくなったのか。理由は一言で終わる。俺が話を書き始めたからだ。物語はひらめきだ。一瞬だ。思いついたのがシャンプーで頭を洗っているときだろうがヤカンを火にかけているときだろうが恋人と別れ話をしている最中だろうが、ひらめくときはひらめく。ひらめきは時間も場所も当人の都合さえも選ばない。そして俺はそのひらめきという一瞬のためにならそれ以外のものを投げ打ってシャーペンを握ることを選んだ。
そんな俺が台所に立たなくなったのは、天ぷらを揚げているときにひらめきを追いかけてしまい、油の中で海老が炭と化し、油が燃焼されて有毒な煙を発し、危うく火事を起こすことになろうとしたからだ。これまでもヤカンの水を全蒸発させて空焚きしたことは何度かあった。そのたびに男が眉を寄せ懇々と説教をしていたのだが、これにはとうとう男が本気で怒った。
火事にこそならなかったが一酸化中毒で俺が死に掛けたからだ。
俺はきちんと起きていて目も見開いていたにもかかわらず、油が黒い煙を上げて周囲に立ち込めても気づかず、煙を吸って息苦しくなり気を失うまでずっと、キーボードを叩いていた。
以来男は俺に台所に立つことを禁じた。
そして俺が台所で触っていいのは水道の蛇口以外では電子レンジと電気ポットのみ。
しかしこれにも制限がある。電子レンジでも食べ物を炭化させることは可能だからとオーブン機能は使用禁止、長時間の温めが要すものは不可。電気ポットには常に水を満タンにしておくこと。使ったら必ず継ぎ足すこと。寝るときはコンセントを抜くこと。……煩いことこの上ない。しかし逆らうことは許されない。俺は死に掛けたのだ。平日の日中、あの日あのとき打ち合わせの約束をしていた男が訪れなかったら、良くて一酸化中毒死、悪くて火を出して焼死していたことだろう。周囲に被害を出さないで済んだのは事態に気づいた男の行動力のおかげ以外の何ものでもないのだ。
そうして俺は電子レンジと電気ポットしか触れなくなったが、制限の代償として、男が俺の家の台所に立つようになった。それまで自炊なんてほとんどしたことがなかったために最初こそ包丁を握る手すら覚束なかったが男は探求熱心で知的好奇心が強かったためにすぐに熟練した。男に料理人が多い理由を目の当たりにした。
しかしトントンとリズミカルに包丁がまな板を叩いている音を聞いていると――いったい何をどう間違ったのか、と思ってしまう。
顔よし頭よし性格も…少々面倒だがまあ悪くはないだろう。腹の内を覗かせないし、気に食わない相手には笑顔で毒を吐ける男だが、基本誰に対しても丁寧で穏やかで態度は柔らかい。特に女には年齢制限なしに無条件で優しい。
これでもてないはずがない。
はずがないのだが、
「……いや、こっちは助かっているが」
「はい?何か言いましたか?」
男がリビングダイニングを振り返った。
本当に――いったい何をどう間違ったのか、としか言いようがない。
「……。いや、腹が減ったと思っただけだ」
「もうすぐ出来ますよ。もう少しだけ我慢してください」
そろそろここを片付けろということか。
ダイニングテーブルの上にパソコンとノートと辞書に資料と満遍なくぶちまけていた俺は、丁度手も止まっていたことだし、と仕事道具たちを適当に脇に寄せる。
仕事用の部屋はあるにはあるのだが、これから仕事と身構えてしまうとどうしても手が鈍るので、執筆作業はリビングのテーブルですることが多い。見るでもなくテレビの音が流れているのも俺を気楽にさせる。
「出来ましたよ」
男が盆を持ってきた。
どうやら今日は和食のようだ。
白米に紅鮭、ほうれん草のおひたし、ひじきの白和え、ゴボウとレンコンとコンニャクのピリ辛炒め、鍋の具かと思うような具たくさんの――白菜にネギにニンジンに鳥団子が入っていた――味噌汁。
完璧だな。野菜を取れと無言で圧力をかけてきてるところまで完璧だ。
「僕はこれから仕事なので失礼しますね」
「ああ」
黙々と食べ始めた俺を脇に、男はエプロンの紐を解き、まくっていたシャツの袖を戻すとジャケットを羽織った。
「お味噌汁は多めに作ったので残りは耐熱ボウルに入れておきましたから、足りなかったら電子レンジで温めてください。ご飯や他のおかずも。食べないようなら冷めてから冷蔵庫に入れておいてください。くれぐれも火は使わないでくださいよ」
「わかってる」
「では行ってきます」
「ああ」
行ってこい。
ここは男の家ではないが、挨拶とはそういうものだ。
俺は行儀悪く箸を持った手を軽く振った。
バタンとドアの閉まる音を聞いて、ガチャリと鍵が掛かるのを聞いた。
ふと、付けっ放しにしていたテレビを思い出す。
男が町を歩いている。
これは男が持ってきた映像だ。
時の人と呼ばれるようなブレイクをした男は――テレビコマーシャルの契約はいくつか取り付けたが――引く手数多だったトレンディドラマの仕事の一切を引き受けず、ローカルテレビに仕事を持ちかける形で仕事を持ち帰った。
それがこれだ。
内容は男が一人街中を散策する、ただそれだけだ。
食べ歩き番組とも観光案内番組とも違う。それらと比べるには内容あまりに半端すぎる。
男のプロモーションビデオ。
初めて見た人間はそう判断するだろう。
これといった内容もなく、男の顔見せをしているとしか思えない内容なのだから仕方がない。
だがこれは一見何も考えていないように見えて、その実とても考えに考えた内容なのだ。
これは日曜の朝に流されている。
そう、もう既に放映が始まってから半年経つのだ。最初はひと月の契約だった。反響がなければすぐに打ち切り。いくら時の人ともてはやされようとも、男はテレビ関係では新人だったのだから当然だろう。だが、もう半年が経過し、更に放映続行が決まっている。こうなれば顔だけが要因とは呼べないだろう。
一見何の内容もないように思われるこの映像は、日曜日の遅く起きた朝、特に目的もなくぼんやり眺めるともなく付けられたテレビから流れるものとして、俺が考えた。
男は笑って俺に言った。
「一時の話題性で持て囃されて、使い捨てにされるのは御免です」
そして俺と男は考えた。
名と顔はそこそこ売れた。
ならその次にすべきは定着すること。
人の気は移ろいやすい。
ドラマには脚本というリスクが付く。どれほど役者がいい演技をしようと、脚本が悪ければ視聴者を繋ぎとめることは難しい。連続ドラマを毎週飽きずに見届けるというのは思いのほか難しいのだ。
それに――
「あなたの本以外で僕は演技しませんよ」
……いちいちしつこい。
そして俺たちはあえて地方発信を選び、地元のテレビ局に企画を持ち込んだ。
足元を固めるなら地元から。
男の時の人効果もあって、無名の俺の企画でも採用された。
そして男は歩く。
カフェで本を読んだり、犬と遊んだり、料理をしてみたり、人と会話をしてみたり。
さらりと目に優しく耳に心地よく、男の長所をぶち込んでできた映像は、まるで男のプロモーションビデオだった。
この企画の目的は――
「目覚ましを付けずに起きて」
「のんびりコーヒーでも飲みながら」
「今日これから何しよう?」
「天気がいいから」
「溜まった洗濯物を片付けるか」
「ちょっと遠出して久しぶりに友達とランチに行くものいいよね」
「たまには家族サービスは?」
「やっぱり家でごろごろしていようかな」
「近所の公園まで散歩してみるのもいいかも」
見た人の生活の延長にあるもの。
そこに男の雰囲気と親近感を売り込む。
話題性を用いれば派手に売り出すこともできたが、無名で顔が売りの若手俳優が一時の話題性だけで人気を維持することは難しい。
ではどうすればいいか?
俺と男の意見はすぐに一致した。
老若男女に、地元に、地道に、堅実に、根付くこと。
根がしっかりと張れれば、後はどうとでも葉を広げ花を咲かせていくことができるはず。
だからこれは男のプロモーションビデオだ。
ナレーションも男本人にやらせた。これも作戦の一部だ。男の声を売り込めて、ナレーター分の費用も浮く、まさに一石二鳥。
男と俺とローカルテレビ局が作ったこの番組は有名な民放に買い取ってもらうことが決定し、番組は放映続行。
この番組の成功のおかげで俺と男はローカルとはいえテレビ局に足がかりができた。
次の企画は深夜帯での一回30分の連続ドラマ。
もちろん男もこの番組という舞台に上がる。
俺が脚本を手がける代わりに、テレビ局からの注文は売り出し中の現役女子高生アイドル三人を使うこと。
味噌汁を啜りながら、手元の資料を引っ張ってくる。
資料で見た限り、それぞれなかなか個性の強そうな、可愛い女の子たちだ。演技は素人の彼女たちが演じやすいように、元来の性格を上手く生かして、男は別の引き出しを開けさせよう。
顔を売り、名を売り、更に定着を図る。
連続ドラマだが、短編にしよう。
どの回から見ても、一度だけでもきちんと話が終わっていること。
深夜帯だ、多くの視聴者が見終わった後にベッドに入ることになるんじゃないだろうか。
ならば楽しい気持ちや優しい気持ちで眠れるといい。たまには切ないのも大事だろう。
でも退屈させてはいけない。
眠気を誘うものではいけない。
日常のちょっとした謎、買います。
今、浮かんだな。
俺は箸を置くと脇に寄せていたパソコンを自分のそばまで引っ張る。
なぞ。
謎謎謎。ならミステリーだな。男が愛読しているあれだ。
可愛い女の子三人をワトソン役に、男は探偵役で。逆でもいいな。
うん、楽しそうだ。
いい年した男が可愛い女の子たちに振り回されたり一緒にはしゃいだり。思わず視聴者がにこにこするような。
もう食事どころではなくなっている。
俺は盆を奥へ押すとそこにパソコンを引き寄せた。
気が済むころには冷め切っているだろうが、冷めたら温めればいいのだ。
幸い、電子レンジの使用は許されている。
end.
(基本書き投げなので、まさか続きを書くとは思ってもいませんでした。吉町さんの派生話がなかったらこの話は出てくることはなかったでしょう。吉町さんに感謝を込めて)
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